サン・アントニオ作戦平成16年10月1日配信 |
||||||
Powered by ![]() |
||||||
|
昭和19年11月24日、マリアナ諸島に進出した米軍は、総力を挙げて日本本土に対する戦略爆撃を本格化してきました。この対日戦略爆撃は「サン・アントニオ作戦」という暗号名がつけられており、最初の爆撃目標は、武蔵野市にあった中島飛行機武蔵野製作所のエンジン製作工場でした。 戦略爆撃とは、直接対峙している戦闘部隊に対する爆撃ではなく、相手の軍需施設、兵器生産工場、通信施設、交通機関などに打撃を加えることにより戦争能力の喪失を意図とする爆撃のことで、敵国のどこでもよいから爆弾を投下し街を焼き払えばよいと言うものではなく、明確な目標を決めてこれを破壊し、敵国に降伏を促すのが「戦争の常道」であります。 以下に記述する事柄は、第一航空軍司令官から隷下の部隊長にあてた戦局に関する通信内容の概要ですが、大本営発表とは相当な乖離がある部分があります。 私達は通信内容を逐一受信していましたので、最高の軍事機密事項であっても、通信士は最初に智得できる立場にありました。 しかし、その内容を漏洩した場合は、相当な処罰を科せられたことは言うまでもありません。 中島飛行機武蔵野製作所を目標とした爆撃は十一回にも及びますが、後半の五回は百機以上のB-29の爆撃により、ついに昭和20年4月7日に壊滅しました。 また、中島飛行機の群馬県太田工場も昭和20年2月10日に、98機のB-29による高性能爆弾と焼夷弾の爆撃で工場はほぼ全焼しました。 このことを予想し、宇都宮市の郊外約10kmにある西室山と乙女山、稲荷山にまたがる大谷石(おおやいし)の採掘跡の洞窟を利用して、昭和18年10月から1年半をかけて地下工場を建設していました。 工場は地下30〜50mにあり、100平方メ−トルほどの部屋が無数に作られていました。この地下秘密工場で、一万〜一万五千人の作業員が飛行機を生産していましたが、米軍も終戦後になってはじめて、この工場の存在を知ったそうです。 神戸市とその周辺にも川崎航空機、川西航空機の大工場とその下請け工場が集まっていました。米軍の最大タ−ゲットは、川崎航空機の兵庫県明石工場でした。 昭和20年1月19日の精密爆撃は米軍にとっては完全な成功といえるものでした。 明石工場は、双発の戦闘機「屠龍」や「飛燕」を組立てており、特に「屠龍」はB-29に対する夜間迎撃戦闘機として37mm機関砲を備え、米軍にとっては脅威の戦闘機だったのです。 また、兵庫県伊丹市新明和町の川西航空機(現新明和工業、中央競馬阪神競馬場の隣)も「紫電改」や「強風」「二式大艇」を生産していましたが、神戸周辺の軍需工場同様に大被害を受けました。 (余談になりますが、新明和工業はその流れを今に汲む主力製品として「US−1A型救難飛行艇」があります。これは、国内で唯一完成品として製造されている世界有数の飛行艇で、現在海上自衛隊第31航空群(岩国)の救難艇として運用され、これまで多くの人々の救助を行っています) 精密爆撃の信奉者であったハンセル准将からルメイ少将に司令官が交代してから、作戦が大きく転換され、東京の大空襲を皮切りに、焼夷弾による無差別空襲が始まりました。 焼夷弾爆撃の対象都市は、第一位の東京から第百八十位の熱海まで、人口が多い順に番号をつけて焼き払い、六十四都市までを焦土とした時点で終戦となりました。一説には京都や奈良が空襲を受けなかったのは、文化遺産である古都を保存するためである、と、伝えられていますが、京都は原爆投下都市としてランクされており、奈良は爆撃順位が第八十位であったため、爆撃を免れたのです。(日付等の詳細は、「米軍が記録した日本空襲」アメリカ版による) 無差別に焼き尽くす作戦を駆使するルメイが、文化遺産の保護を考えていたとは到底考えられません。 こうした狂乱とも言える無差別焦土作戦の背後には、日本人に対する不気味さや不安感があったと想われます。日本軍はどんなに劣勢に立たされても決して退くことをせずに陣地を死守し、ほとんどが玉砕という集団自殺に等しい最期を遂げていることを思い知らされているからにほかなりません。 サイパン、グァムおよび硫黄島に上陸する際、米軍は連日に亘って艦砲射撃と空襲で攻撃を行いましたが、いったん上陸してみると完全に制圧するまでには、予想をはるかに上回る人命を損失しました。 米軍には陣地に突っ込んで白兵戦を行なう戦術はありませんでした。さらに徒手空拳になってまでも敵兵と命の交換をするような戦い方は、米軍兵士の理解をはるかに超えるものでした。(因みに、イラク戦争勃発時から現在までの米軍の戦死者が約1,000名に上るとのことですが、この数字から判断しても接近戦に弱いことが窺えます) 「忠臣蔵」に見られる浪人たちの旧藩主への忠誠心が、天皇に対する忠誠心へと転換してきた歴史的な国民感情と、日本軍は玉砕しても投降はしないのと同じように、日本自体も玉砕を覚悟しているものと解釈していたのでしょう。 日本が降伏しない限り、攻撃は続けなければならない。その為には、都市を壊滅させる焦土作戦が不可欠でるとの結論であったのでしょうか・・。 話しは変わりますが、永●●氏が、「靖国の母とは」と、言う一文を発表しています。その内容については既にご存知の方はいらっしゃると思いますが、 「自分が産んだ子供を、日の丸を打ち振ってアジア侵略人殺しに送り出した「靖国の母」とか「銃後の母」と呼ばれた恥知らずが60数年前の日本にいたのです。 実母に日の丸を振って侵略殺人を鼓舞され送り出される子供の心情を思うと平成の今でさえ怒りがこみ上げてきます。 信じられないことに母親は人殺し侵略強盗息子が被害者に反撃されて死ぬと恩給といって年金まで受け取っていた。 日本皇軍侵略強盗息子に家族や幼子を殺されたアジアの貧しい人達の怒りがたった60数年で消えるとはとても思えません。 あなたは家族を目の前で殺されて、60年くらいで忘れる事が出来ますか? 先日 同じように我が子や夫をイラク・サマワに手を振って送り出した恥知らずの国民がいました。 イラクの名も無き子供たちの頭を吹き飛ばす石油強盗の手助けをする職業を「自己決定」した男たちを平気で送り出したのです。 靖国の母っていうのは、息子を戦死させた母親でしょう。 その母親たちが戦争反対運動をしたのかと思ったら、してないんですね。 息子を殺されて、戦争反対を叫ばない母親たちがいたんですねェ。 不気味な言葉ですね、靖国の母って」『無名人名語録』 永●● この人の言葉を借りると、私は、「日本皇軍侵略強盗息子」であり、生き恥を書きながらここまで生きながらえてきたわけでしょうか。 「戦死した戦友は皆、犬死なのか!!」と憤懣やる方のない気分になりました。 この人は、思想論を超えた差別論者であり、私はこのような考えかたをする人は「抗日分子」であると痛感します。
|
|
トップ|バックナンバー一覧|ある通信兵のつぶやき|著者の紹介|Q&A|メルマガ購読|リンク ![]() 軍事情報|ある通信兵のおはなし|ひらやんのブツクサ独り言|日本列島波高し|不肖・宮嶋支援HP|硫黄島戦|Amamil IRMS|軍事情報labo|軍事情報りんく集|おすすめ書籍|軍事関連知識集|年代表|情報資料|心と体の危機管理 |