対日謀略放送平成16年7月9日配信 |
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技術担当の徳本一等兵が使い古しの部品をかき集めて何かを組み立てていました。 筐体の部品がありませんので、真空管、トランスなどが剥き出しになっていました。どうやら受信機のようです。受信調整に一生懸命の様子でしたので声をかけるのを躊躇していましたところ、通信室長から「何ができるか分かるか?」と問い掛けられました。 「バリコンが付いていますから、受信機でしょう」と答えますと。 通信室長 「軍隊仕様にもない、勿論一般市販品にもない高性能の中短波受信機を作っているのだ。完成してから隊長に報告するつもりだが、最近、高出力の発信機を使った対日放送が頻繁に傍受されるようになった。現用機をこれらの放送を受信するために割愛できないことと、この種の放送は対日謀略活動の一端としてのものであることから、公に受信することは厳禁となっている。 アマチュア無線用の短波受信機は、昭和16年に全部封印された。 しかし、俺が『我が隊は、いかなる謀略宣伝放送といえどもその発進元を追跡し、傍受した情報を上層部に対して通報する義務がある』と隊長に具申したところ、『本来の無線通信に支障を来たさないように対処せよ』との認可を得たので、取り組んでいる。 が、中古品の寄せ集めでは部品が不足することと、部品の劣化により規定値の確保が困難で未だ完成していない。頭を痛めているところだ」 私 「軍隊の『員数合わせ』という言葉はご存知とは思いますが、一つの物の数合わせを行なうためには『手段を選ばない』という暗黙の了解があります。 飛行機の員数あわせは無理ですが、無線機の小さい部品であれば簡単であると思われます。一等兵に「公用」の腕章をつけさせ、堂々と営門(監視所)を通過させ、一等兵の出身メ−カ−に派遣し、必要部品を調達すれば如何でしょう? 勿論、無償ではなく、次に司令部を通じて発注する機器の見積書に部品価格を上乗せすれば、まずバレルことはないでしょう。但し、特別仕様書番号がつき、単価が既に決まっているものはダメです。この方法では如何でしょうか?」 室長 「貴様は、若いのに員数合わせの裏道をよく知っているな。よし俺の責任で一等兵に公用勤務を命じる」 陸士卒はこのような場合、自己の責任内での決断が至極明確でした。 日頃の真面目?な私の性格が一遍に剥がれてしまいましたが、「善は急げ」の諺のとおり、一等兵が出発しました。 しばらく顔を見ない元職場の同僚と、尽きない話で盛り上がることでしょう。 筐体のないむき出しの受信機が完成しました。 最初にキャッチしたのは【アメリカ声・VOA】でした。 (注)「はなしの第22話」で一部を紹介しています。 http://ohanashi.okigunnji.com/backnumber/te22.htm VOAのアナウンサ−は日系二世の日本語課長であるフランク馬場氏で、周波数は、以前に大阪朝日放送が使っていた1010khz。サイパン島からの発信で、夜から深夜にかけて日本全国で聴取が可能でしたが、中波の妨害電波により聞き取り難いときもありました。 世界で初めて行われた日本語による定時放送は、1942年(昭和17年)4月14日のモスクワ放送局だそうですが、ドストエフスキ−作曲「祖国の歌」で始まっていたそうです。当時の女性アナウンサ−「野坂龍さん」は野坂参三氏の夫人ですが、一人で日本語放送を担当されていたそうです。 その他当時あった日本語放送は、【ザカライアス放送】【ラジオ・オ−ストラリア】【マッシュビル放送】などで、そのいずれもが、日本人の厭戦感を煽るものでした。 中でも【ザカライアス放送】は、日本語のうまい米海軍大佐ザカライアスが1945年(昭和20年)5月8日に開始した放送です。 その第一声は「私は今、ワシントンから日本の皆様に呼びかけています。 ナチス・ドイツは昨日降伏しました。 日本の指導者が戦争を継続する限り、我々は攻撃を中止しない。 日本の残された道は、壊滅か無条件降伏のいずれかである」 (注)軍事情報の年代表(昭和20年)を参照してください。 [5月7日、ドイツ軍が連合軍に対する無条件降伏文書に調印] http://nendaihyo.okigunnji.com/syowaera.htm この放送は、昭和20年8月まで繰り返して放送されましたので、おそらく政府や軍上層部も聴取していたと思います。 戦後の1952年(昭和27年)の夏、「自由日本放送」が始まります。 これは無認可の、いわゆる地下放送局でした。 放送局のコ−ルサインやその所在地を明かさず、番組の内容からその趣旨は日本の共産主義化を画策した内容でした。 電波管理局が全国の電波監視装置を動員してこの局の方位を探索したところ、中国の瀋陽であることが判明しました。 当時の中国政府は、北京放送よりも力をいれていたようです。 この「自由日本放送」も1979年(昭和54年12月31日)をもって廃局となりましたが、この放送を行なっていた『八木アナウンサ−』は、帰国後某会社の重役に就任したそうです。
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