B29の機雷投下平成16年3月5日配信 |
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米軍は本土上陸作戦に備え、連日のように房総半島沖及び伊豆半島沖の偵察を繰り返していたので、隊長命により、電探部隊の情報を待たずにわたし達は房総沖へ、N軍曹機は伊豆半島沖を哨戒するために出撃しました。 わたし達の機が北緯34度付近の三宅島の東を南下中、「米軍機の交信を傍受したが、『浦賀水道』と言う単語を含んでいる。交信内容から推測するとB29は2機程度。護衛機の機数は憶測不可能。周波数の波形から類推すればグラマンではない。詳細を偵察せよ。N軍曹機にも指示済みである」との基地からの緊急通報が入りました。 折り返し「米軍機の現在座標が交信内容の中になかったか?」と問い合わせると、「雑音がひどくて、聴取できず」の回答。 「判明しだい直ちに通報されたし」と要望をいれ、機首を西にとりエンジン全開で哨戒に向かいました。 広い太平洋のどのあたりでの交信であったのか、全く予測できません。 N軍曹機を呼び出し、基地からの通報受信の有無を確認するとともに、機の位置と方位を聞いたところ、現在位置は神津島上空とのことでした。 基地から「護衛戦闘機はグラマンTBFのようだ。電波の出力が高い。座標判明。数値は○○」。 米軍機は、われわれよりもかなり北方を飛行していたのです。 座標が判明しなければ、いたずらに洋上をさまようところでした。 最初の通報では「グラマンではなさそうだ」との連絡でしたが、矢張りグラマンでした。 搭載している無線機も機種が違うと当然違いますので、基地の通信要員も周波数の波形の区別がつかなかったのでしょう。 N軍曹機と連絡をとりつつ、一路、米軍機を捜索するために北上しました。 前方に見えました。 大きく見えるのはB29でしょう。矢張り2機でした。 護衛機のグラマンTBFは3機ですが、1機は編隊を離れて少し後方を飛行しています。 この、編隊から少し後方の機は「殿(しんがり)」といって、編隊の後方を護る特別の任務を持ち、熟練した搭乗員が乗っているのです。 日本でも、この「殿(しんがり)」を配置する戦法は戦国時代からあり、特に勇猛な武士の一団が務め、本隊が転進する場合にとられた戦術です。 米軍機の高度は約2,000です。 京浜を空襲するのであれば、現地点では低すぎます。 遥か右前方から友軍機が十数機、飛来してくるのが見えます。館山、木更津からスクランプルしてきた、海軍の「彗星」と「零戦」です。 海軍機が使用する無線周波数はわかりませんので、基地を通じて、「われも空戦に加わる」と通報をいれ、N軍曹機にも通報しました。 基地から、「米軍機は、隊長機から任務遂行を繰り返し指示している」との情報が入りましたが、こちらのお出迎えにビックリしたのでしょう。 海軍機が2機のグラマンに群がって襲いかかっています。 1機、また1機と、黒煙を吐きながら浦賀水道へ墜落しています。 「殿」を務めていた1機がわたし達の機に襲いかかってきました。 両翼の機銃から閃光がはしると、T曹長は機を滑らせて回避。 弾の速さは光の速さ(1秒間に30万km)より随分遅く、閃光が見えた途端に回避できるから、着弾をかわせるのです。 しかし、熟練した射手は相手の進行方向に照準を合わせて撃ってきますので、右へかわすか左へかわすかは一種の賭けです。 「彗星」が1機、相手の後方に回り込みました。 歴戦の猛者でしょうか、グラマンの射程に死角があることを知っていました。 後方の旋回銃は、自機の尾翼の直ぐ後ろが死角となり、射撃すれば自機の垂直尾翼に当たることになります。 操縦士に命中したのでしょうか、グラマンはキリモミ状態で上昇しています。 操縦悍を一杯に引いてしまったようです。 落下傘が2つ見えます。2名の乗員は脱出できたようです。 護衛機がなくなったB29は、海軍機の攻撃を受けながら高度を1,000Mまで落として旋回しています。 そのうち1機の右側の2基のエンジンから黒煙がでました。 友軍機の攻撃で被弾したのでしょうか。 2機の爆弾倉が空いて、黒いものが何十個も落ち落下傘が開きましたが、沢山あるので白い花が咲いているようです。 当時米軍は、日本本土の海上輸送を封鎖するため、「関門海峡」「豊後水道」「紀伊水道」「浦賀水道」「津軽海峡」及び「瀬戸内海、日本海」にB29から感応機雷を落下傘で投下していました。 海中に落とされた機雷は海底に沈み、その上を通過する船舶のスクリュ−音、または、船体の磁気を感知して自動爆発するので、水深の浅いところほど通行する船の被害が大きいのです。 (注)落下傘で投下する理由は、そのまま爆弾のように投下すれば、海面に激突する衝撃で爆発するので、そうなるのを避け軟着水させるためです。 エンジンに被弾したB29は、とてもテニアンの基地までは帰投できず、搭乗員は脱出して救助を待つことでしょう。 実際の交信状況は、逐一基地で受信していたそうです。 零戦が1機被弾し、墜落中に落下傘が見えました。 しかし、陸地が近いので救助されたと思います。 もう1機のB29は、機雷投下後、高度を最高度にとって海軍機の追撃をかわすのに必死でしたが、わたし達はその結末を見ることなく、一部始終を基地へ連絡の上、帰投の途につきました。 ところで、 戦後これらの機雷を掃海するために尽力された多くの方々は、報道されることもなく、任務に従事されました。 戦時中、日本周辺の海域には約66,000個の機雷が敷設されました。 旧軍隊が敷設した防禦用機雷(系維機雷)が約55,000個、米軍が敷設した感応機雷が約11,000個ありました。 (注)系維機雷=機雷が浮遊しないように錘をつけ紐でとめている機雷。 戦後の2ヵ月間で83隻の船舶が触雷しました。 この処理のため、 旧海軍掃海部隊の艦船391隻と復員後再召集を受けた人員19,100名で部隊が編成されました。 名称は「航路啓開部隊」。 「啓開(けいかい)」とは、辞書で検索すると「水中の障害物などを除いて、航行できるようにすること」とありましたが、通常は、このような難解な言葉を使わずに「掃海」といいます。 新憲法が昭和21年5月3日に施行されており、旧軍隊で使った「掃海」を避けたのでしょうが、名前は違っても危険な仕事には変わりはありません。 当時の吉田茂首相は憲法に抵触する可能性から、犠牲者が出た事実は勿論、日本特別掃海部隊の存在すら公表せず、また、隊員達にも緘口令が敷かれていたそうです。 1950年(昭和25年6月25日)に朝鮮戦争が勃発。 韓国軍が敗退し釜山(プサン)まで北朝軍が席巻してきた折、GHQの命令により「日本特別掃海隊」が結成され、掃海艇20隻、巡視船4隻、延べ1,200名の隊員は、米軍第七艦隊の敵前上陸の血路を開くため、朝鮮の仁川で機雷除去作業を行ないました。 これは、憲法第九条に違反する以外の何者でもないのですが、占領下にあったことと、GHQによる報道管制によって国民は全く知らなかったのです。 ところが、戦後30数年を過ぎた昭和50年代の初め、当時の海上保安庁長官が手記を出版し、全容が明らかになりました。 朝鮮の仁川で亡くなられた方が「戦死」扱いとして公認されたのは、1979年(昭和54年)でした。 戦後の「戦死」扱いに困り、だんまりを通すつもりだったのでしょうが、海上保安庁長官の手記が出たので、隠しとうせなかったのでしょうか。 このような仕打ちは歴代の政府は、人間的な暖かさがなかったことを物語っています。 もし、仁川の敵前上陸が成功していなければ、敗走する韓国軍は日本本土へ逃げ込み、当然のように、北朝軍は山口県あたりまで進出してきたでしょう。 そのような状態に陥っても、某局のニュ−スキャスタ−は「反戦平和」を云々するでしょうか? できるとしたら、余程、勇気のある人です。 戦後、掃海作業で殉職された方は79名にものぼりますが、GHQは機雷掃海作業について厳しく報道を管制していたため、殉職者の葬儀すら公然と行なうことができませんでした。 四国の金刀比羅宮に犠牲者の慰霊碑があります。 私見ですが、どのように綺麗ごとをならべていても、法律は、権力者、為政者によって捻じ曲げられ、都合よく運用されるものと思います。
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