ある通信兵のおはなし

(最終回)日本軍隊の終焉

平成17年6月3日配信
コンテンツ

トップ
著者の紹介
メルマガ購読
ある通信兵のつぶやき
Q&A
リンク
バックナンバー一覧
Amamilサーチ

Powered by Amamil

PRODUCTS


AD


Powered by



【第130話】〜日本軍隊の終焉

 昭和20年8月30日、連合国軍最高司令官兼米極東軍最高司令官のマッカーサ
ー元帥は厚木飛行場に到着、日本本土に勝利の第一歩を印しました。

元帥は、
直ちに宿舎として決められていたホテルニュ−グランドに向かいました。

ホテルニューグランドは、太平洋戦争の敗戦、米軍進駐という時期を迎えます
が、1945年8月30日、厚木飛行場に到着、濃いサングラス、ノーネクタイ、コ
ーンパイプをくわえた姿で降り立つマッカーサー元帥の姿はあまりにも有名で
す。

元帥は、声明文を朗読した後、すぐさま乗用車に乗り込み、まっすぐホテルニ
ューグランドを目指しました。
進駐軍が最初の滞留地を横浜とした陰には、最高司令官の宿舎として戦火を逃
れたホテルニューグランドがふさわしいとの意見があったからと伝えられてい
ます。

マッカーサー元帥の専用室に当てられたのは315号室で横浜港に面した3階に
あるこの部屋を、「気に入った」と副官に告げていたといいます。
このあと元帥はわずか3日滞在した後、次の居留地へと移ることになるのです
が、実はマッカーサーがホテルニューグランドに宿泊したのは、このときが初
めてではないのです。1937年、フィリピン軍事顧問として当時のケソン大統領
訪米に随行、その帰り訪日した際に、彼にとっては二度目の結婚相手であるジ
ーン婦人との新婚旅行として、ホテルニューグランドに宿泊をした記録があり
ます。
その彼が、今度は占領軍の最高司令官として足を踏み入れることになったので
す。

8年間で横浜は大きく変貌してしまった。

そのとき元帥の脳裏に、平和な時期の記憶が蘇っていたかどうかは定かではあ
りません。

(参考 ホテルニュ−グランドのHP)

8月31日の夕刻、須原中佐に呼ばれ、9月1日付を以って「陸軍軍曹に任ずる」
との内示がありました。

当時、見習士官であった人は、見習士官の在任期間に拘わらず、「少尉」に昇
進しましたが、これを「ポツダム少尉」と呼んでいました。

各飛行隊基地に対して、司令部から無線放送を行う電文が送付されてきました。

1.各戦隊基地は、連合軍の通達に基づき、残存する軍用機及び銃器類は、別途、
連合軍の査察があるまで、現状のまま保存すること。

2.軍事機密事項に関する書類は、直ちに焼却処分すること。

3.残務整理が終了した部隊から、逐次、除隊復員を速やかに行なうこと。

4.解隊後、その旨を司令部宛てに報告せよ。

5.司令部の無線通信は、9月30日を以って「停波(無線の閉鎖)」する。

概ね、このような内容の電文でした。

いつもの放送形態での送信とは違い、「これで終りか」と思うと、胸がつかえ
て上手く電鍵を打つことができず、恥を忍んで岩城上等兵に送信を代わっても
らいました。

他の通信兵たちは、一様に押し黙ったまま一言もありませんでした。

そこへ、須原中佐が現れ。

「若い貴様たちは、これからの日本を再興させる重要な世代であるにもかかわ
らす、なにを、女々しい顔をしているのだ。
自身が悔いのない任務を遂行してきた自信があれば、それを心の内の勲章と思
え」と、一喝され皆は元気づけられました。

ところで、戦後の戦記物の図書ではあまり紹介されなかった、「海軍の宇垣中
将の特攻攻撃」について述べたいと思います。

属に「私設特攻」と言われた顛末は、8月15日の「終戦の詔勅」が正午に放送
された後に出撃したことにあります。

昭和20年8月15日、第5航空艦隊司令長官宇垣纏中将が、天皇陛下の「終戦の詔
書」を拝聴した後、隷下の七○一航空隊大分派遣隊に特攻出撃を命じ、自らも
指揮官機に搭乗して沖縄のアメリカ艦船群に対して最後の「特別攻撃」を敢行
しました。

「武人の最期を飾るに相応しい」と、いう肯定派と、「大西中将のように個人
で責任を取ればよい、部下を道連れにするのは行き過ぎだ」と、いう批判派に
評価は別れていました。

宇垣長官は突入に先立ち、次の「決別の辞」を機上から無線送信しています。

「過去半歳ニ亘リ麾下各隊将士ノ奮戦ニ拘ワラズ、驕敵ヲ撃砕、皇國護持ノ大
任ヲ果タスコト能ハザリシハ、本職不徳ノ致ス所ナリ。

本職ハ皇國ノ無窮ト全航空部隊特攻精神ノ昂揚ヲ確信シ、部下隊員カ櫻花ト
散リシ沖縄ニ進攻、皇國武人ノ本領ヲ発揮シ、驕敵米艦ニ突入轟沈ス。

指揮下各部隊ハ本職ノ意ヲ体シ、凡ユル困難ヲ克服シ、精強ナル皇軍ノ再建ニ
死力ヲ尽シ、皇國ヲ萬世無窮タラシメヨ。

    大元帥陛下萬歳。         彗星機上にて 19:24」

また、第一航空艦隊司令長官として、レイテ島方面の作戦で初めて「体当たり
攻撃」の実施を命じ、その後、 軍令部次長の職にあって終戦を迎えた大西中
将は、8月16日未明、日本刀で腹一文字に掻き切って自決を遂げられました。
そして、次の遺書が残されています。

 [遺 書] 

「 特攻隊の英霊に曰す、善く戦ひたり、深謝す。
 最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。

 然れども其の信念は遂に達成し得ざるに到れり。
 吾れ死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。

 次に一般青壮年に告ぐ。
 吾が死にして、輕挙は利敵行為なるを思ひ、聖旨に添ひ奉り、
 自重忍苦する誡めとならば幸いなり。

 隠忍するとも、日本人たるの矜持を失う勿れ。
 諸子は國の寳なり。平時に處し猶克く特攻精神を堅持し、
 日本民族の福祉と世界人類の平和の為、最善を盡せよ。

        昭和20年8月16日 海軍中将   大 西 瀧 次 郎 」


昭和20年9月2日東京湾のアメリカ戦艦ミズ−リ号の艦上に於ける降伏調印式で
調印された文書は次のとおりです。

       (参考 外務省編、「日本外交年表並びに主要文書」原書房)


◆「降伏文書」(原文はカタカナ旧字体)

(降伏文書の英文原本は、アメリカの国立公文書館に保管されており閲覧でき
ます)

 下名は、茲に、合衆国、中華民国及びグレート・ブリテン国の政府の首班が、
1945年7月26日ポツダムに於て発し後にソヴィエト社会主義共和国連邦が参加し
たる宣言の条項を、日本国天皇、日本国政府及日本国大本営の命に依り且之に
代り受諾す。右四国は以下之を連合国と称す。

 下名は、茲に、日本国大本営並に何れの位置に在るを問はず、一切の日本国
軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊の連合国に対する無条件降伏を布告す。

 下名は、茲に、何れの位置に在るを問はず、一切の日本国軍隊及日本国臣民
に対し敵対行為を直に終止すること、一切の船舶、航空機並に軍用及び非軍用
財産を保存し之が毀損を防止すること、及連合国最高指令官又は其の指示に基
き、日本国政府の諸機関の課すべき一切の要求に応ずることを命ず。

 下名は、茲に、日本国大本営が、何れの位置に在るを問はず、一切の日本国
軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊の指揮官に対し、自分及其の支配下に
在る一切の軍隊が無条件に降伏すべき旨の命令を直に発することを命ず。

 下名は、茲に、一切の官庁、陸軍及び海軍の職員に対し、連合国最高指令官
が、本降伏実施の為適当なりと認めて自ら発し又は其の委任に基き発せしむる
一切の布告、命令及指示を遵守し且これを之を施行すべきことを命じ、並びに
右職員が連合国最高指令官に依り又は其の委任に基き特に任務を解かれざる限
り各自の地位に留り且引続き各自の非戦闘的任務を行うことを命ず。

 下名は、茲に、ポツダム宣言の条項を確実に履行すること、並に右宣言を実
施する為連合国最高指令官又は其の他特定の連合国代表者が実施することある
べき一切の命令を発し、且斯る一切の措置を執ることを天皇、日本国政府及其
の後継者の為に約す。

 下名は、茲に、日本国政府及日本国大本営に対し、現に日本国の支配下に在
る一切の連合国俘虜及被抑留者を直に解放すること、並に其の保護、手当、給
養及指示せられたる場所への即時輸送の為の措置を執ることを命ず。

 天皇及日本国政府の国家統治の権限は、本降伏条項を実施する為適当と認む
る措置を執る連合国最高指令官の下に置かるものとす。

1945年9月2日午前9時4分、日本国東京湾上に於て署名す。

大日本帝国天皇陛下及日本国の命に依り且其の名に於て。
          重光 葵
日本帝国大本営の命に依り且其の名に於て。
         梅津 美治郎

1945年9月2日午前9時8分、日本国東京湾上に於て合衆国、中華民国、連合王国
及びソヴィエト社会主義共和国連邦の為に、並に日本国と戦争状態に在る他の
連合諸国家の利益の為に受諾す。
連合国最高指令官 ダグラス・マッカーサー
合州国代表者 シー・ダブリュー・ミニッツ
中華民国代表者 徐永昌
連合王国代表者 プレース・フレーザー
ソヴィエト社会主義共和国連邦代表者 クズマ・エヌ・ヂレヴィヤンコ
オーストラリア連邦代表者 ティー・ユー・ブレーミー
カナダ代表者 エル・コスグレーヴ
フランス国代表者 ジアック・ル・クレルク
オランダ国代表者 シェルフ・ヘルフリッヒ
ニュー・ジーランド代表者 エス・エム・イシット

「厚木」に到着したマッカーサー元帥が真っ先に命じたのが、「戦犯」に対す
る逮捕令状でした。

吹きまくる「戦犯」狩りの嵐の中、連合軍の裁きを潔しとしない、何人かは逮
捕される前に自らの命を絶ちました。

A級戦犯の約200名は、「巣鴨拘置所」に監禁されたのと同時にBC級戦犯に該当
する約5600名が各地で逮捕投獄されました。

BC級戦犯とは、主として捕虜取り扱いに関して不法行為による摘発で、B級は
指揮監督にあたった将校で、C級は直接捕虜の取り扱いにあたった下士官、兵、
軍属でした。

その他、連合軍の作戦遂行にあたって、重大な妨害行為を行なった将兵はC級
とされていました。

従って、私たちの通信隊員も足がついた場合は、C級にランクされるところで
すが、司令官が直接、GHQの高官と交渉を行い、単なる「気象通報」の無線放
送および、他の基地通信隊との交信が主目的であった。と述べられたそうです
が、青梅にあった通信隊が索敵、哨戒、無線妨害、なりすまし通信などを行な
ったことについては、GHQ側は詳細を把握していなかったようです。

ところが、捕虜虐待行為により逮捕されかかった、某憲兵隊員が青梅基地、お
よび荻窪通信隊での任務を少しばかり知悉していたらしく、自分の罪の軽減を
図ることを目的に連合軍側に告発したそうですが、自己の罪を隠蔽し、他を中
傷するような告発に対してGHQは取り上げなかったことを、後日聞きました。

このように、自己保身のために、あることないことを告げ口した不貞の輩が横
行しましたが、米軍側にしてみれば、節操のない愚かな日本軍人を蔑んでいた
ことだろうと思います。

◆A級戦犯とは。

「平和に対する罪を指し、宣戦布告の有無に拘わらず、侵略戦争目的、若しく
は国際法、条約、協定または誓約に違反する戦争の計画、準備、開始とこれの
遂行、若しくは、諸行為のいずれかを達成する為の共通の計画または共同謀議
へ参加した者とされ極東国際軍事裁判(通称、東京裁判と言われ、法廷は旧陸
軍士官学校の講堂)によって有罪判決を受けた戦争犯罪人のことです。

「処刑後の措置について」
昭和23年12月23日に処刑された7人の遺体はまもなく横浜の久保山火葬場で荼
毘に付されました。
しかし、遺骨は遺族に引き渡されることもなく、米軍により砕かれて東京湾に
捨てられてしまったのです。
これは、報復的な感情によるものであると考えます。

しかし、12月25日に小磯国昭の弁護人だった三文字正平氏が共同骨捨て場から
7人の遺灰を密かに回収し、戦死した彼の甥の名で近くの興禅寺に預けました。

そして、昭和24年5月に伊豆山中の興亜観音に密かに葬られました。
その後、昭和35年8月18日に愛知県幡豆郡幡豆町三ヶ根山の山頂付近に移され
ました。
三ヶ根山には殉国七士廟が設けられ、その中に遺骨が分骨されて安置されてい
ます。
ちなみに、ニュールンベルク裁判で死刑となった12人(自殺したゲーリングを
含む)の遺体は焼却され、川に捨てられたそうです。

東京裁判の判事であった、インドのパール氏は、次のように主張したそうです
が、読者の皆様方は、どのように判断されるでしょうか。

「パール判事は、この裁判が最初から日本を侵略国と決め付けていることに不
快感を示した。
そしてこの裁判の本質は連合国側の政治目的を達成するために設置されたに過
ぎず、日本の敗戦を被告達の侵略行為によるものと裁く事によって、日本大衆
を心理的に支配しようとしていると批判した。さらに、検察側の掲げる日本の
侵略行為の傍証を、歴史の偽造だとまで断言した。かつて欧米諸国がアジア諸
国に対して行った行為こそ、まさに侵略そのものであると訴え、全被告は無罪
だと主張した。」(参考『戦犯裁判の実相』巣鴨法務委員会編集)

因みに、欧米諸国が植民地として支配していたフィッリッピン、タイ、シンガ
ポール、インドネシア等の各国が戦後、植民地支配から脱却し、独立を勝ちと
っていることから考えても、パール判事の主張に一理はあると思われます。


◆BC級戦犯横浜裁判

 第二次世界大戦中の特定地域で「通例の戦争犯罪」を行った者に対して、連
合国各国が行った軍事裁判をBC級戦犯裁判といいます。 

戦後連合国は米、英、仏、豪、フィリピン、オランダ、中華民国の各国がBC
級戦犯裁判を行いましたが、日本国内においてはアメリカが横浜地方裁判所を
接収して1945年(昭和20年)12月から1949年(昭和24年)10月までBC級
横浜裁判を行いました。
事件総数は327件、起訴人員は合計1037名で各地のBC級裁判の中でも
最大規模であり、判決では112名(123名あるいは124名との説もあり
ます)に絞首刑が言い渡され、内51名の絞首刑が執行されています。

 BC級横浜裁判は米軍が接収した横浜地方裁判所の中にある陪審裁判用に作
られた特号法廷で行われました。

なお、当時の横浜地方裁判所の建物は現在取り壊されてしまいましたが、この
特別法廷は桐蔭学園横浜大学内に保存される予定だそうです。

 裁判では、米国軍人が裁判官となり審理を担当し、日本人と米国人が被告人
の弁護を担当しましたが、実際の法廷における弁護活動は主に米国人弁護士が
担当しています。

 裁判の特色としては、俘虜の虐待等の俘虜収容所関係の事件が242件、起
訴人員528名と一番多く、次いで無差別爆撃による国際法違反の被疑者とし
て拘束したB29爆撃機の搭乗員を処刑したことが戦争犯罪とされたケースが
多くなっています。

(参考 「東京裁判ハンドブック」青木書店)

「BC級戦犯裁判に関する年表」

昭和20年 9月 1日 GHQがBC級戦犯容疑者の逮捕令を発令
昭和20年 9月 3日 比島方面軍最高司令官山下奉文陸軍大将、逮捕
昭和20年10月 8日 米、マニラ裁判開廷(〜22年 4月15日閉廷)
昭和20年11月20日 米、クエゼリン裁判開廷(〜20年12月24日閉廷)
昭和20年12月 3日 豪、ラブアン裁判開廷(〜21年 1月13日閉廷)
昭和20年12月 7日 豪、モロタイ裁判開廷(〜21年 2月28日閉廷)
昭和20年12月 9日 豪、ラバウル裁判開廷(〜22年 8月 6日閉廷)
昭和20年12月18日 米、横浜裁判開廷(〜24年10月19日閉廷)
昭和21年 1月21日 英、シンガポール裁判開廷(〜23年 3月12日閉廷)
昭和21年 1月29日 英、クアラルンプール裁判開廷(〜23年 1月11日閉廷)
昭和21年 2月11日 英、タイピン裁判開廷(〜22年12月26日閉廷)
昭和21年 2月12日 米、上海裁判開廷(〜21年 9月16日閉廷)
昭和21年 3月 1日 豪、ポートダーウィン裁判開廷(〜21年 4月29日閉廷)
昭和21年 4月 8日 中、北京裁判開廷(〜22年12月13日閉廷)
昭和21年 4月 8日 英、ラブアン裁判開廷(〜21年 5月24日閉廷)
昭和21年 4月10日 英、ビルマ裁判開廷(〜22年11月21日閉廷)
昭和21年 4月10日 英、アロールスタン裁判開廷(〜22年11月16日閉廷)
昭和21年 4月11日 米、グアム裁判開廷(〜24年 4月28日閉廷)
昭和21年 4月25日 英、香港裁判開廷(〜23年12月10日閉廷)
昭和21年 4月26日 由利 敬陸軍中尉、巣鴨ブリズンの執行第一号として絞首刑
昭和21年 5月16日 中、広東裁判開廷(〜22年 2月20日閉廷)
昭和21年 5月17日 豪、シンガポール裁判開廷(〜22年 4月 2日閉廷)
昭和21年 5月24日 中、上海裁判開廷(〜24年 1月26日閉廷)
昭和21年 5月30日 中、南京裁判開廷(〜25年 5月13日閉廷)
昭和21年 6月15日 中、徐州裁判開廷(〜22年 4月30日閉廷)
昭和21年 6月28日 中、漢口裁判開廷(〜23年 1月29日閉廷)
昭和21年 7月20日 中、瀋陽裁判開廷(〜23年 1月 8日閉廷)
昭和21年 8月 5日 蘭、バタビア裁判開廷(〜24年10月24日閉廷)
昭和21年 8月12日 英、ジョホールバル裁判開廷(〜22年 7月12日閉廷)
昭和21年 8月25日 中、済南裁判開廷(〜22年11月13日閉廷)
昭和21年 8月30日 英、ペナン裁判開廷(〜21年 9月28日閉廷)
昭和21年 9月13日 蘭、バリックパパン裁判開廷(〜22年 5月25日閉廷)
昭和21年 9月30日 仏、サイゴン裁判開廷(〜25年 3月29日閉廷)
昭和21年10月 2日 蘭、マカッサル裁判開廷(〜24年 8月16日閉廷)
昭和21年10月10日 蘭、モロタイ裁判開廷(〜23年 1月21日閉廷)
昭和21年10月21日 蘭、ポロチャナック裁判開廷(〜23年 1月16日閉廷)
昭和21年10月30日 蘭、メナド裁判開廷(〜23年 5月28日閉廷)
昭和21年11月20日 英、ジェッセルトン裁判開廷(〜22年10月8日閉廷)
昭和21年12月 1日 中、大原裁判開廷(〜23年 3月29日閉廷)
昭和21年12月 5日 蘭、アンボン裁判開廷(〜23年12月10日閉廷)
昭和22年 2月 6日 蘭、メダン裁判開廷(〜24年 3月10日閉廷)
昭和22年 7月30日 蘭、クーパン裁判開廷(〜23年 7月25日閉廷)
昭和22年 8月 1日 比、マニラ裁判開廷(〜24年12月25日閉廷)
昭和22年11月11日 蘭、パンジェルマシン裁判開廷(〜23年 7月17日閉廷)
昭和22年11月24日 豪、香港裁判開廷(〜23年12月23日閉廷)
昭和23年 3月 1日 蘭、ホーランディア裁判開廷(〜23年10月21日閉廷)
昭和22年 5月24日 蘭、タンジョンピナン裁判開廷(〜23年 8月30日閉廷)
昭和25年 6月 5日 豪、マヌス裁判開廷(〜26年 4月 9日閉廷)
昭和27年 4月28日 対日平和条約発効、巣鴨プリズンを日本へ移管
昭和27年 8月 5日 日華平和条約発効、在中国戦犯91名釈放
昭和28年 3月19日 グアム裁判の刑死者遺骨、一部返還
昭和28年 3月24日 東京護国寺に「身代り地蔵尊」建立
昭和28年 6月 5日 在仏戦犯30名釈放
昭和28年12月 1日 在ソ戦犯811名釈放
昭和28年12月14日 横浜久保山墓地より刑死者60名の遺骨発掘
昭和28年12月15日 護国寺にて60名の追悼法要、遺骨を遺族へ伝達
昭和28年12月30日 在比戦犯全員釈放
昭和29年 4月22日 在仏戦犯2名釈放、フランス戦犯解消
昭和29年 6月30日 恩給法一部改正(戦犯代理家族により受給可能)
昭和30年 4月 2日 マレー地区戦犯刑死者遺骨194柱返還
昭和30年12月18日 中共刑死者遺骨40柱返還
昭和31年 1月 1日 在英戦犯2名釈放、イギリス戦犯解消
昭和32年 5月24日 中、広東裁判刑死者遺骨16柱返還
昭和33年 5月30日 米関係戦犯18名釈放、巣鴨プリズン在所者0
昭和30年12月15日 連合国全戦犯解消
昭和34年 4月 6日 BC級刑死者346柱、靖国神社へ合祀
昭和34年10月17日 BC級刑死者479柱、靖国神社へ合祀
昭和39年 5月30日 オランダ関係刑死者遺骨3柱返還
昭和39年 7月 3日 「東京拘置所の敷地を戦争裁判の遺跡として保存する件」閣議了解
昭和39年 7月21日 オランダ関係刑死者遺骨68柱返還
昭和41年 2月 8日 オランダ関係刑死者遺骨140柱返還
昭和42年10月18日 戦争裁判刑死者114柱、靖国神社へ合祀
昭和43年10月  日 横浜光明寺に「六十烈士忠魂碑」建立
昭和55年 6月  日 東池袋中央公園に「永久平和を願って(碑)」建立
平成 6年 5月14日 高野山奥の院に「昭和殉難者法務死追悼碑」建立


◆BC級裁判の概要
http://ohanashi.okigunnji.com/bc.htm

◆サンフランシスコ講和条約

昭和26(1951)年9月8日 サンフランシスコで署名

前文
 連合国及び日本国は、両者の関係が、今後、共通の福祉を増進し且つ国際の
平和及び安全を維持するために主権を有する対等のものとして友好的な連携の
下に協力する国家の間の関係でなければならないことを決意し、よつて、両者
の間の戦争状態の存在の結果として今なお未決である問題を解決する平和条約
を締結することを希望するので、
 日本国としては、国際連合への加盟を申請し且つあらゆる場合に国際連合憲
章の原則を遵守し、世界人権宣言の目的を実現するために努力し、国際連合憲
章第五十五条及び第五十六条に定められ且つ既に降伏後の日本国の法制によつ
て作られはじめた安定及び福祉の条件を日本国内に創造するために努力し、並
びに公私の貿易及び通商において国際的に承認された公正な慣行に従う意思を
宣言するので、
 連合国は、前項に掲げた日本国の意思を歓迎するので、
 よつて、連合国及び日本国は、この平和条約を締結することに決定し、これ
に応じて下名の全権委員を任命した。これらの全権委員は、その全権委任状を
示し、それが良好妥当であると認められた後、次の規定を協定した。

第一章 平和
第一条【戦争状態の終了、日本国の主権承認】
(1)日本国と各連合国との間の戦争状態は、第二十三条の定めるところにより
  この条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。
(2)連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。
第二章 領域
第二条【領土権の放棄】
  (1)日本国は、朝鮮の独立を承認して、斉州島、巨文島及び欝陵島を含
     む朝鮮 に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する。
  (2)日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権限及び請求
   権を放棄する。
  (3)日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約
   の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に
   対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する。
  (4)日本国は、国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利、権限
   及び請求権を放棄し、且つ、以前に日本国の委任統治の下にあつた
   太平洋の諸島に信託統治制度を及ぼす1947年4月2日の国際連合安全
   保障理事会の行動を受諾する。
  (5)日本国は、日本国民の活動に由来するか又は他に由来するかを問わ
   ず、南極地域のいずれの部分に対する権利若しくは権限又はいずれ
   の部分に関する利益についても、すべての請求権を放棄する。
  (6)日本国は、新南諸島及び西沙諸島に対するすべての権利、権限及び
   請求権を放棄する。

 以下は省略します。

        (参考 昭和27年(1952)4月28日 外務省告示第10号)

◆ あとがき

 日本はサンフランシスコ平和条約を締結した後、賠償を支払うべきところに
は支払い、在外地における財産は全部没収され、また勝者が裁く戦犯裁判によ
り、太平洋戦争に係わる全ての案件は終止符を打ったのではないのでしょうか。

 しかるに、近隣国はA級戦犯を合祀していることを理由に日本の首相が靖国
神社参拝について猛反対の行動を起こし、加えて、歴史教科書問題など、明ら
かに内政干渉である事項についての運動には納得できません。
抗日運動をあおるために靖国問題を持ち出していると考えられます。

 彼の国はこのような枝葉末節にこだわる民族なのでしょうか、明けても暮れ
ても靖国問題が採り沙汰され、先日も某高官のドタキャン騒ぎがありました。

 ニュ−スで靖国問題がでてくるたびに、ウンザリし食傷気味です。

 経済関係は密接な関係を維持しましょう、しかし、靖国参拝は反対である。
 このような、趣旨一環しない政策が彼の国の真の姿であるとすれば、進出し
ている日本の各企業も考えなくてはならないでしょう。

 A級戦犯を分祀すれば今度はBC級戦犯を合祀しているから、参拝は反対と言
うでしょう。
 
 いずれにしても、戦後60年を経過したこんにちまで、靖国問題を引きずって
いるのは、戦後における日本の復興が著しいことに対するヤッカミも多分にあ
るのでしょうか。


(teruteru)


(「ある通信兵のおはなし」おわり)

◆追記

 過去2年有余に亘って、「軍事情報」のマガジン「ある通信兵のはなし」と
して連載させていただきましたが、私自身が戦後、誰にも語ることのできなか
った経験の数々を語り尽くすことができました。
 
 その間、多くの読者の方から、激励、感想文などを寄せていただきましたご
好意に対しまして厚くお礼を申し上げますとともに、読者皆様方の今後のご健
勝とご活躍を祈念いたしまして、お礼の言葉に代えさせていただきます。

(teruteru)

無料メールマガジン『軍事情報』(ID:0000049253)
    まぐまぐ

前のおはなし