終戦直後の顛末(その二)平成17年5月6日配信 |
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【第126話】〜終戦直後の顛末(その二)〜 私たち一行は司令部に到着、第一航空軍司令部の通信関係統括責任者である須原中佐殿に着任の申告をしました。 その際、「また憲兵とイザコザが遭ったようであるが、彼らは歪んだプライドの塊であるから、今後相手にするな。しかも、駅前の一般人の眼の前での出来事については、問題である。 兵隊同士が喧嘩しているから戦争に負けたんだ、と解釈するだろう。今後注意するようにしろ」 「敗戦の責任は、すべて軍隊であるとの風潮が広がりつつあるが、陛下の責任を問う声が極めて少ないことは、本官は予期していなかったが、幸いなことである。本日15:00より、下士官以上の者に対して、司令官から説諭があるから会議室へ集合せよ。なお、森田隊長と平岡少尉は既に到着している。以上」 司令部の空気は、想像した以上に張り詰めており、しかも上級者ばかりですから気を許すことは出来ませんでした。 司令官から8月15日の陛下の「終戦の詔勅」発布から現時点までの経緯についての説明と今後の対処方について説諭がありました。 「降伏文書調印に関する連合軍との会談(下打ち合わせ)が、マニラにおいて開催されることとなったが、これに関してわが国と連合軍司令部(マッカーサー)との間で交信された内容は、概ね次のとおりである。 その概略は。 ◆昭和20年8月15日(22:35)連合軍司令官マッカーサー将軍から、大本営あてに中国の重慶放送を通じて書翰があった。(注 マニラから重慶を中継した放送形態であると思われます) 「本職は合衆国、中華民国、連合王国及「ソヴイエト」社会主義共和国連邦 連合国最高司令官に任命せられ、且出来得る限り速かなる期日に於て戦闘行 為を停止する為、直接日本国官憲との間に取極を為すの権限を付与せられた り。 米軍司令部と貴国大本営との間に継続的「ラジオ」通信を行う為、東京地区 の「ラジオ」放送局が公式に指定せられんことを希望す。 本書翰に対する回答に於て放送局名、記号、周波数を通報せられたし、「マ ニラ」に於ける本職司令官との「ラジオ」通信は英文にて行われんことを希 望す、前述の目的の為東京地区の放送局が指定せらるるに至る迄の間UM放送 局の無線周波数3705Khzを目的の為使用せらるべく、これに対し在「マニラ」 放送局は周波数5965khzを以て答うべし。 本通報を受領の節は其の旨確認せられたし。 マッカーサー将軍 大日本帝国大本営 御中 ◆連合国最高指揮官「ダグラス・マツカーサー」元帥に対する回答電文 (昭和20年8月16日 日本国政府、大本営) 瑞西(スイス)国政府を通じ伝達せられたる米国政府の通告及び東京無電局 が受信せる「マッカーサー」元帥の通告を夫々受領せりよって左の通り通告 す。 1.天皇陛下におかせられては8月16日16時、全軍隊に対し即時停戦の大命を発 せられたり。 2.右大命が第一線に到達し実効を挙ぐる日時は左の如く予見す。 (イ)内地 48時間 (ロ)支那、満州、朝鮮、南方諸地域(ただし、ブーゲンヴィール・ニュー ギニア・フィリピンを除く) 6日 (ハ)「プーゲンヴィル」8日 (ニ)「ニューギニア」、比島の重要司令部は12日、第一線は命令伝達期日 の見透しは困難なり。 3. 終戦に関する大御心及び右停戦の大命の徹底を期するため御名代を関東軍、 支那派遣軍及び南方軍に夫々派遣せらる。 航空機の型式、標識等に関しては追報すべし、よってこれに対し安導を保 証あり度し。 4. 8月17日に出発し、在「マニラ」「マッカーサー」司令部に向け軍人顧問 を帯同する権限ある代表者(単数)を派遣せしむべしとの要請に関しては、 8月17日に我方代表者の飛行方を取計うことは不可能なるを以て我方とし て大なる困惑を感ずるものなり、但し直ちに必要なる準備に着手し出来得 る限り速に右代表者を派遣することとすべく「マッカーサー」元帥に派遣 期日を通告すべし。 5. 今後の連合国最高司令部との通信連絡は次の方法によることと致し度し。 (イ)日本側発受信者 大本営又は政府 (ロ)日本側発受信局 東京局(呼出符号JNB、周波数3740khz) (ハ)通信方法(A1) 無線電報 ′ (二)用語 英語 6.「マッカーサー」元帥発通告に記載せられたる飛行機の型式は理解し得ざ るにつき、型式に関する通告を十分且明瞭に繰返し電報せられたし。 7.「マッカーサー」元帥発出の通告全部を受信し居ることを確め度きにつき、 本通報第5項の連絡通信を通じ今一度右通告全部を繰返し電報せられたし。 ◆大本営宛連合軍最高司令官発の電報 (8月17日午前) 8月16日付け貴電を受領せり、当方は異議なし、日本代表の「マニラ」向け 飛行の日を通知せられたし。 ここまでが、現時点での状況である。 代表者が搭乗する輸送機の選定に苦慮したが、最終的には海軍の一式陸攻、出発地は千葉県木更津と決定した。 ところが、米軍の指示とおり、機体を白く塗り、安導権(safety conbuct)を示す緑十字のマ−クをつけて試験飛行を行なったが、厚木の第302空の戦闘機に発見され、機銃弾を撃ち込まれて穴だらけとなった。 第302空司令の小園大佐は「天皇の軍人には絶対に降伏はあり得ない」というビラを東京に撒き徹底抗戦を叫び、第三航空艦隊司令長官の寺岡中将の説得も聞かず、厚木航空隊は反乱状態となった。 経緯は以上であるが、話せば短い文章であるが、これをモ−ルス通信で交信するとなると、英文タイプは出来ても、送信はダメ、送信はなんとか出来ても受信が無理な通信士ばかりであることから、今後、マニラにおける降伏文書調印のための打ち合わせに関して相当頻繁に無線通信を行なう必要があるが、連合軍側の要望は上りと下りの周波数を別個に設定し、同時に送受信を行ないたい、との要望である。 この通信方法は、現場経験の豊かな熟練者でしかも、送信担当と受信担当の呼吸が合わないと、却って能率が悪い。 大本営の通信隊以下、我が軍の通信兵は軍隊特有の略数字を得意とするが、英文は殆ど使用していないことと、あわせて、世界共通のQ符号Z符号は全然知らないだろう。 Q符号の略語の意味がわからないと、交信することはできない。 田無の陸軍中央特殊情報部の通信士は英文も堪能であるとの見地から照会したところ、8月14日の夜遅くまで機密文書の焼却を行い、15日の早朝全員地下に潜ったそうである。 戦争犯罪者摘発を逃れるために、故郷にも帰った気配はないそうだ。 本官は唖然とするよりも、日本武士道も地に落ちたと嘆きたい思いである。 私的なことではあるが、本官は11才で朝鮮を離れたときから日本に骨を埋める覚悟であったが、いたづらに、軽挙盲動に走ったり暴徒と化した日本軍人の姿に触れ悲憤慷慨の念を捨て切ることが出来ない。 わが第一航空軍隷下では、粛々と終戦処理に当たるよう徹底を図ってもらいたい。 以上である」 (参考図書 戦後日本の再出発 集英社 1976年) 【追伸】 なお、李中将の奥さん(梨本宮方子妃)が戦後、自伝を発行(朝鮮王妃自伝、三省堂、1987年)した際、「老いたる母の願い」と題して、お母さんの梨本伊都子氏が、あとがきの形で記述しているのを見つけ、なぜか、胸にキュンときましたので、参考までに同送します。 「歳月よ王朝よ―最後の朝鮮王妃自伝」 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/438535300X/gunjijouhou-22/ 【老いたる母の願い】 梨本 伊都子(なしもと いつこ。1882〜1976) このたび李方子が自叙伝を出すにあたり、なにかひとこと書けといわれましたが、母として特別に書くこともありません。校正刷を読んでゆくうち、過ぎ去ったさまざまの出来事が、よろこびや悲しみと共に思い出されて、とめどなく涙が流れてきました。よくもここまでこぎつけてきたものと、感慨無量でした。 世の中のことはなにもしらないうら若い乙女が、ただお国のためにとおしつけられた思いもかけぬ結婚、しかもそれは、ひとことの相談もなく決められ、一生を犠牲にしてしまう運命となったのです。 母親としてなんともしてやれない悲しさ、苦しさ。表面は笑顔で過ごしていても、心の奥のなやみは、その後、長く長く、耐えしのびつづけてきたことでした。同じく悩み多き日々を過ごしてきた方子−−−−これもなにかの因縁でありましょうか。母は、ただただ、つつがなかれと祈るのみでした。 だが、相手の垠殿下は、人間として立派な方でした。夫婦としてのふたりは、むしろしあわせであったと思います。たとえ、たどってきた道はけわしくても、それに耐えぬいてこられたのは、ふたりの、人間としての結びつきと愛情の深さにあったのだと思います。 結婚の前後、とくにいい聞かせたことをよく胸におさめ、方子が李王家のためにつくしてくれたことは、なによりうれしいことです。人間はなにによらず忍耐が第一だと思います。 そして、明治、大正、昭和と3代の世の流れと共に、数々の出来事をきりぬけて、いまは韓国に帰り、ご病気の垠さまにつくし、社会事業や心身障害者のために心をくだいていることは、まことにうれしいことです。 今後は、垠さまのご病気が少しでも快方にむかわれて、なつかしい故郷の地で、いつまでもしあわせにお過ごしあそばすことを、ひとえに祈るのみでございます。 梨本 伊都子=1882(明治15)年2月2日ローマ生まれ。鍋島直大(なおひろ)の次女で、梨本宮家をついだ梨本守正(なしもともりまさ)と1900(明治33)年に結婚し、皇族となる。守正がフランス留学に際しては同行し、フランス社交界で「花」とうたわれた。1947(昭和22)年皇族籍を離脱。1976(昭和51)年8月19日に94歳で死去。 1885年(明治18)年に女子教育者下田歌子らにより華族子女の教育のために設立された設けられた華族女学校(1906〔明治39〕学習院女学部として合併)卒業。 著作に『三代の天皇と私』、日記に『梨本伊都子日記』がある。
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