ある通信兵のおはなし

終戦直後の顛末

平成17年4月29日配信
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【第125話】〜終戦直後の顛末〜

 機密事項に関する書類(暗号書、乱数表、交信記録)その他、各人の軍歴記録などを焼却し、市ヶ谷の司令部への集合せよ。と航空軍司令部からの命令が出ました。

軍歴記録は連合軍の探索を逃れるためでした。
当時、部隊の解体が早かったところは、8月下旬頃から除隊復員が始まっていましたが、一部の抗戦派は命令に反して集結していました。

森田隊長の言を借りますと。

「一時の血気にはやり、徹底抗戦を唱えている将兵が東京都内に集結しているそうであるが、近衛部隊は既に鎮圧された。しかし、満足な武器も持たない将兵たちが、竹槍精神を振りかざしているそうである。
精神力だけでは戦闘に勝つことは不可能である、決起した結果、民間人を巻き添えにすることは、明らかである。
引き際の勇気が大切であることを、この際、銘記するように」

平岡少尉からは。

「備蓄している米および食料品、その他毛布など、今後必要でないものは、小学校付近の隣保班長(今の自治会長または町内会長)に配分を依頼する。
また、焼却は学校の焼却炉を使用させてもらいたいと、学校の管理者に申し出ている。無線機はガソリンをかけて焼却するが、バケツでぶっ掛けて火をつけると、飛び散ったガソリンに引火して非常に危険である。まかり間違うと被服に火が付く恐れがあるので、充分注意すること。

私が「少尉殿、苦心作の米軍機の座標数値表も焼却するのでありますか」と尋ねますと、

「これが進駐軍にバレると戦犯として追跡されることが予想される。
焼却処分しても、焼け残りの灰に微かなインキの跡が残るため、そこから足が付くだろう、従って軍衣の裏に分からんように縫い付ける」とのことでした。

日頃から学校周辺の人たちと交流していた背景には、任務の内容を秘匿するため、敢えて「軍隊は確かに滞在しているが単に駐留しているだけ」ということを、暗黙の内に一般の人達に知らせるという理由があったのです。アンテナはラジオ受信用であると思っていたでしょう。

当時、学校周辺には沢山の畑があり、農家の方から旬の野菜を差し入れてくれたこともありました。

米は一ヶ月間ほどの備蓄がありましたが、一般社会では白米の飯を「銀飯」と呼び珍重するほど米が不足していたのです。甘味料も無く、砂糖などは眼にかかることがない時代でした。

以前の101通信隊から転属してくるとき、航空糧食のパックを数十個持ってきていましたので、これも配分してもらいましたが、中身を見て子供たちは、さぞ喜んだことと想います。

司令部へ出頭するため残務整理を終えた藤田曹長以下の兵は揃って荻窪駅へ向かいました。

駅頭で
「おい、君達は何処へ行くのだ」と、居丈高な声がするので振り向くと、憲兵の上等兵と一等兵の二人です。また、憲兵と争うのはバカらしいと思いましたが、

「何か用か?
断っておくが、『君達』とは、誰に向かって言っているのだ?
撤回せよ」

と反論すると

「用があるから呼んだのだ、文句があるか。
『復員証明書』を見せろ。
襟の階級章と略帽の星のマークをとれ」

藤田曹長はなにげない顔をしていましたが、私は頭に血がのぼり

「俺たちは、停戦命令に基づき、これより第一航空軍司令部へ出頭するところだ。何か、文句があるか!
除隊命令は出ていないから、当然階級章はそのままだ!」

私たちは、私物を毛布に包んで担いでいましたので、復員兵または逃亡兵と勘違いしたのでしょうか。そこで、憲兵が「失礼しました」と言えば簡単に納まったのですが・・・。

上等兵の憲兵が「毛布に包んでいる中身を見せろ」と言ったものですから、先ほどから黙って聞いていた藤田曹長も堪忍袋の緒が切れ、いきなり二人の憲兵にビンタをくらわしました。
柔道の猛者のビンタは想像以上にきつく、二人は倒れたまま起きることができません。
これまでの鬱憤が爆発したのでしょうか。

二人の股間を革靴で蹴り上げたので、憲兵たちは失神状態となり、人だかりがひどくなってきました。
一人の警官がサ−ベルをガチャガチャいわせながら、駆けつけてきましたので、ことの経緯を説明し、曹長と私の名前を告げ、「この憲兵たちが所属する憲兵分遣隊から異論があれば、私たちがこれから行く航空軍司令部へ通報するように」と依頼しました。

二人がまだ苦しんでもがいているのを尻目に、到着した列車に乗りました。

当時、除隊する復員兵は、必ず「復員証明書」が必要でしたが、この証明書があれば、故郷の最寄駅までは乗車賃はいりませんでした。

米軍兵に対して、多少でもジュネ−ブ条約に抵触する怖れのある、いわゆる、脛に傷を持つ当時の日本軍人は、競って逃亡を図り行方をくらましたのですが、「マッカーサーが厚木に到着する前に、これらの分子を検挙せよ」との連合軍の命令が出ていたことを、司令部に到着後に聞きました。

また、荻窪駅での憲兵の件については、憲兵分遣隊から謝罪の電話があったそうですが、須原中佐は

「貴分遣隊に所属する憲兵の教育はどうなっているのか。これまでも我が航空軍の任務を阻害する行為が度々あった。真に謝罪するのであれば、市ヶ谷の司令部へ出向いてくるべきである」と憲兵少佐に厳しく忠告したそうです。

その他、司令部の須原中佐から聞いた顛末は

「東京都内では、さきの8月15日の近衛部隊の反乱は鎮圧された。
しかし、8月17日の朝、茨城県の水戸駅を出発した水戸教導航空通信師団の将兵391人が、某将校の指揮で続々と上野公園の美術館前に集結を始めた。
上野公園に集結した水戸教導航空通信師団の一隊は、夜に入ると「東京での徹底抗戦」を唱え、午後10時、皇居前広場まで前進したが、近衛師団の警戒は厳重を極めており何も出来ぬまま、再び上野公園に引き返した」そうです。

なお、17日に集結した水戸教導航空通信師団の391人のうち、第一中隊の49人は翌日に水戸に帰ったが、残りは依然として美術館で頑張っていたそうです。

皇居占拠事件に参加した近衛師団参謀の石原貞吉少佐は、集結している第二中隊長岡島哲少佐に面接し、説得に努めていたが、その横で成り行きを見ていた通信師団の林少尉が、いきなり、説得に来ている石原少佐をピストルで射殺。
これを見た岡島哲少佐は、腰の軍刀を引き抜き、林少尉を一刀の下に斬って捨てたとのことです。

これを機会に、流石の強硬派も撤収することとなり、午後10時半から相次いで美術館を出て行ったそうですが、石原少佐を射殺した林少尉の属する小隊長松島利雄少尉は、館内で自決したとのことでした。
(人名は、「NHK特報首都圏」参考)

詳しく話しを聞くにつけ、一時的な精神の高揚が他に弊害を与えることとなることを痛感しました。 


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