ある通信兵のおはなし

航空総軍の命令

平成17年4月1日配信
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【第121話】〜航空総軍の命令〜

 昭和20年8月10日の午前2時半頃、司令部との直通電話のベルがけたたましく鳴り響き、しばしの仮眠をしていたところを起されました。

こんな深夜に電話がかかるのは良い連絡でないことを直感的に悟りました。
松村上等兵が受話器をとり最初に聞いた内容は、司令部通信兵からの

「これから送る電文は我が軍の最高機密事項である。
受信後、速やかに暗号化し無線放送を行なうこと。
これは、航空総軍の厳命である」

というものでした。

松村上等兵
「暗号化をする必要性の有無は、内容を熟読したのち上官に伺いを立てる。前置きは良いから電文を早く送れ」

松村上等兵は特別幹部候補生(*)出身の少年兵で、温厚な性格でした。
そんな彼の「早く送れ」と言う強い言葉の裏側に、私は、航空部隊を統括する上層部の高圧的な態度を感じとり、反発心を覚えました。

和文タイプで受信する一字一字を食い入るように読んでいましたが、体中から力が抜けるように感じられました。

徳本一等兵が隊長に報告するために飛び出して行きました。


電文の内容は

1. 8月10日午前2時20分の御前会議に於いて、我が国の国体護持を条件と
  して、「ポツダム宣言」を受諾することが決定された。

2. 日本政府は、中立国であるスェ−デン・スイスを通じて連合国へポツ
  ダム宣言を受諾することを打診することとなった。

3. 各部隊の将兵は、いたづらに流言蜚語に翻弄されることがないよう、
  軍務規律の厳格を期すこと。

この内容を見て暫くは感無量の境地にあった森田隊長は、

「既に、賽は投げられた。日本政府の動向は既に連合軍側はあますことなく認知しているであろう。こと、ここに至って今更暗号化する必要はない。時間の浪費である。電話で受けた電文を平文でそのまま無線放送せよ」

「特に第3項の文言が気に入らん。流言蜚語の発信元は一部の軍上層部である。
日頃、「本土決戦」を呪文のように唱えている者の悪あがきとしか解釈できない。

『今後の展開については予測できないが、無条件降伏となれば、当然、連合軍が日本を占領し軍政下に置くことは必至であると考える。
従って、我々は各個人で判断し行動することなく、軍人として恥じるような行動は絶対に許さない。軍上層部の命令に従い粛々とした敗戦処理を行なうことが最も肝要である』

第3項は、このような内容の電文でなければならない。

誰の発案で起案したのかわからないが、おそらく実戦経験のない若手将校連に違いないだろう。

本通信隊を預かる隊長として命令する。

『航空総軍の命令のうち、第3項は割愛して無線放送すること』

なお、本件に拘わる全ての責任は俺がとる。」

私たちが言いたかったことを言い尽くしてくれましたので、全員が心の中で拍手を送りましたが、その一方で、日本と言う国が連合軍に分割占領されるかも知れないと思い、これから苦難の日が訪れてくるであろうと危惧されました。

森田隊長は未だ20才代でしたが、前の部隊の須原中佐の後輩だけに、その薫陶を多分に受けているように思われ、これからどのように展開されるかは予測できませんでしたが、私は、隊長命令に従って行くことを肝に銘じました。


(*)特別幹部候補生
昭和18年12月14日勅令第922号により創設されたもので、この制度も広義に解釈すれば、少年兵(少年兵とは、満20才未満をさしての総称であったと思います)です。通称を「特幹」と呼ばれ、下士官の速成コ−スでした。
第一航空軍鈴鹿教育隊でも、「特幹」の訓練をしていました。

特幹は現役前(15才から20才未満)に応募します。
歩兵は、下士官の速成コ−スはありませんでした。(自衛隊の特科部隊に相当する兵科だけでした。)

海軍に置き換えますと予科練ですね。


--陸軍少年飛行兵--

少年飛行兵学校は、下士官を養成する学校でした。
陸軍少年飛行兵制度は昭和8年4月に創設され、昭和9年2月の所沢陸軍飛行学校での第一期生卒業にはじまります。昭和13年には、陸軍航空要員を増やすため、東京の村山に東京陸軍航空学校が創立されました。(第6期生から入学)
その後、滋賀県大津と九州の大分にも教育隊が設立されました。
これ以外にあるかも知れません。

終戦時で第20期ですが、期は同じでも学校により入学時期が多少違うかも知れません。(私は18期で、第一航空軍教育隊(鈴鹿)です)
1期〜20期までの累計は約46,000名だそうです。

科目は操縦、通信、整備などで、航空兵と言っても、搭乗員と地上員にわかれていました。

●参考--旧陸軍の下士官養成(昭和19年時点)--

 現役入隊後、一般の初年兵から幹部候補生を募り、試験にパスしますと、その成績により甲種(士官適)と、乙種(下士官適)にわけられました。
甲種に合格しますと「予備士官学校」に入り、卒業後は見習士官を経て、少尉に任官します。

甲種に合格できずに乙種となった者は、娑婆での経験などを参考として兵科が決められ、下士官候補生(乙幹)としての訓練を受けます。

従って下士官へのルートは、志願して軍隊に入った少年兵(「特幹」も含む)の「乙幹」と、「甲種」に合格できなかった「乙幹」との大きく分けて二通りあったわけです。
ちなみに少年兵は入隊時に一等兵でした。(現役ですと、6ヶ月の検閲がすんでから一等兵に昇進します)

その他はメンコと成績により昇進しました。
昇進スピ−ドが速いのは航空兵で、衣服、食事とも歩兵とは大差がありました。

余談ですが、、
部内的に甲種幹部は士官学校卒よりも下に見られていたように思います。
「甲幹」出身の少尉が一番エラブッていましたが、技術(腕前)が伴わない人が自分の地位を見せびらかせたいから、余計に偉そうにしたのだと思います。
その点、士官学校卒の少尉は違っており、それは態度でわかりました。

昭和18年10月、雨の「宮城前広場」の行進で有名な、陸軍特別操縦見習士官(略して特操)がありますが、これは大学を中退して志願した者で、その殆どが特攻隊員となりました。

この方々も、広義に解釈しますと「甲幹」の範疇になると思います。


「ある通信兵のおはなしQ&A」より



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