ある通信兵のおはなし

氷雪の門

平成17年3月4日配信
コンテンツ

トップ
著者の紹介
Q&A
リンク
バックナンバー一覧
Amamilサーチ

Powered by Amamil

PRODUCTS


AD



氷雪の門
 ソ連が宣戦布告を通告して「満州」及び「南樺太」に侵攻してきた情況を、全国の飛行部隊に対して通報する電文が山積み状態になりました。

通常の周波数の一波だけでは伝えきれませんので、予備の周波数と二波で放送することの認可と、でき得れば高速送信ができる通信兵の派遣を、隊長から司令部に要請しました。
氷雪の門(稚内観光協会HPより)

繁忙を極める状況下では、娑婆での現場経験があるプロでないと訂正符号だらけの送信となり、受信する相手もイライラするだけで能率があがりません。
前の隊の隊長だった須原中佐(今は司令部にいます)の特別の計らいで、司令部通信班から、機上通信担当であったS上等兵こと杉本上等兵が出向の形で派遣されることとなりました。

彼は、官立の目黒高等無線学校卒で、娑婆では某漁業無線局での経験が豊富でしたから、私も彼には一目を置いており、よきライバルでもありました。

以前在籍した「第101通信隊」の通信担当の大半が集まることとなり、私としては何とも心強く感じました。

こちらの事情でテンヤワンヤの最中でも、米軍機の動向把握を手抜きすることはできませんので、他の上等兵と和訳担当一等兵の組合わせを作り、24時間体制の傍受を継続していました。

生文での無線通信放送をすれば、米軍機の方向探知機で発信元を捕捉されるとは思いましたが、その懸念もどこかに吹っ飛んでしまうような生々しい電文が、続々と司令部から送付されていました。

当時、南樺太(現在のサハリン、北緯50度以南)には、40万人以上の日本人が住んでいましたが、比較的に平穏な状況下でした。

しかし、ソ連軍の侵攻により、突如として戦場となったわけです。
日本軍は約3万人の将兵がいましたが、航空部隊は皆無でした。
日ソ中立条約との関係から、対ソ戦に備えた積極的な準備行動が採れていなかったものと思われます。

優勢なソ連軍に対し、非力ながらも徹底抗戦した日本軍の奮闘のおかげで、ソ連軍の侵攻が遅れ、その結果、北海道の分割を避けることができたのです。

沖縄戦については、戦後、あらゆるメディアによりその悲惨な情況が紹介され、当時のことを知る人は多いです。
しかし樺太については、何故か人々から忘れ去られていました。

最大の悲劇として知られるのが、
「北のひめゆり」と言われた「真岡電話局」(注1)の九人の電話交換手の自決です。

■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■
「おはなし」の集大成Vol.1『著者自薦集全13話』は、でじたる書房にてお求めいただけます。http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/4323
■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■

ポツダム宣言を受諾して戦争は終結したにも関わらず、ソ連軍は樺太の国境線を越えて南下を続けていました。8月20日には、樺太南端の真岡市に上陸して街を蹂躙しました。

この時、最後まで残った9人の女子決死隊が電話局を死守し、本土との電話回線を確保していましたが、ついに電話局が砲撃を受け、全ての電話線がソ連軍により切断されました。
(注2)
氷雪の門
氷雪の門(稚内観光協会HPより)
回線が切断される直前の悲痛な電話、
「これが最後です。さようなら、さようなら」
を最後に、9人の乙女達は青酸カリを飲んで自決したのです。

最期の通信は、責任者であった可香谷(よしがだに)シゲからの無線でした。
「ワレニンムヲオエリ。サヨウナラ。サヨウナラ。サヨウナ・・ラ」
彼女は服毒後、最後の力を振り絞ってキーを叩いたようです。

(当時、無線は、局相互の中継回線が輻輳した際に、待ち合わせている次の電話番号を送るために使っていました。(速度は分速50字程度)
従って、電話回線で「さようなら」と告げた後に「可香谷主事補」が最期の「サヨウナラ」を無線で通報したそうです。
有線の電話も無線連絡も、受信した電話局は「稚内電話局」です)

この九人の乙女の犠牲によって、真岡市に結集していた日本軍は殆ど無傷で樺太から撤退したといわれています。
殉職された方々は、次の9名ですがいずれも独身であったそうです。

  可香谷シゲ 23才(主事補、現在の主任)

  高石ミキ 24才    吉田八重子 21才   
  渡辺照 17才     高城淑子 19才
  松崎みどり 17才   伊藤千枝 22才
  沢田きみ 18才    志賀晴代 22才

九人は靖国神社に祭られ、同神社の遊就館には「九人の乙女」の写真などが安置されています。              

沖縄戦の「ひめゆり部隊」は、映画、図書などで戦争の悲惨さを痛切に感じた人は多かったことと想いますが、旧樺太の凄惨な戦い、それも8月16日以後に起きたことは、案外に紹介されることがありませんでした。

「真岡局」での悲劇は、終戦の詔勅が放送され、人々が「やっと戦争が終わった」と安堵していた、『8月20日』であることが問題なのです。

ソ連軍の侵略は、「ポツダム宣言」を受諾する旨を天皇が全軍、全国民に対して通告した5日後のことです。

勝者なら何をしてもよいのでしょうか?

 それにしても、
人は絶対絶命の境地に立ったとき、自分では考えられないような気力と度胸が湧くことを、これらの方々の行動から察せられます。

乙女の碑(氷雪の門)
乙女の碑(稚内観光協会HPより)

戦後建てられた稚内市の「乙女の碑」を昭和43年に訪れられた昭和天皇と香淳皇后は深く頭を垂れ、冥福を祈られました。
次の御製、お歌が残されています。

【樺太に命をすてしをたやめの心を思えばむねせまりくる】

【からふとに露と消えたる乙女らの御霊安かれとただいのるぬる】

なお「真岡局の悲劇」については、
昭和49年(1974)に物語が映画化(「氷雪の門」 主演二木てるみ)されました。

ところが、参戦の事実が明らかになることを恐れた当時のソ連が、日本政府に対して劇場公開を中止するよう圧力をかけ、結果的に配給会社は上映を中止します。当時のマスコミはそのことを問題とはしませんでした。

このことは、
昨年(平成16年)の8月30日放送の「フジテレビ ニュ-スJAPAN)で紹介され、その後、映画の復刻版(DVD)が、ネットの通販で販売されています。
http://www.worldtimes.co.jp/shop/hyousetsu/main.html




(参考図書)NTT出版「電信電話100年史」

(注1)当時、電話は逓信省の管轄にあったので、正確には電話交換業務を扱っていた真岡郵便局のこと。当時、上田豊蔵局長以下、職員は約50名いた。

(注2)
電話回線のケ−ブルは、配線盤(MDF)にケ-ブルを立ち上げるまでに、人が立って歩けるぐらいの大きなマンホ−ル(「洞道(とうどう)」と言います)を通っていました。
参考図書の「電信電話100年」には、この場所が爆破されたと記載されていますので、海底ケ−ブル、中継ケ−ブル、加入者回線ケ−ブルのすべてが断線になったものと思われます。


前のおはなし次のおはなし