ある通信兵のおはなし

ソ連参戦

平成17年2月25日配信
コンテンツ

トップ
著者の紹介
Q&A
リンク
バックナンバー一覧
Amamilサーチ

Powered by Amamil

PRODUCTS


AD



長崎に原子爆弾が投下され多くの無辜の市民が殺害された昭和20年8月9日の昼すぎ、私は、司令部からの直通電話で受けた送信電文の内容を見て愕然としました。

その内容とは。
「8月8日午後5時(モスクワ時間)日本時間同日の午後11時、ソ連外務委員モロトフから、佐藤大使に対して宣戦布告書が手交された」との電文でした。

ソ連とは「日ソ不可侵条約」を結んでおり、有効期限内である筈です。

岩城上等兵に放送の送信を依頼し、そのことを隊長に報告に行きました。

隊長は。
「予期していたとおりだな。
ポツダム宣言受諾を黙殺した時点からソ連の動向を気にしていたが、今日の長崎への原爆投下についても事前に知悉していたように思う。
相手の弱みに付け込んだ火事場泥棒的な宣戦布告は、「真珠湾攻撃」とは全く異質なものである。隊員の戦意を喪失しないよう、平岡少尉、藤田曹長と相談し遺漏のないように取り計らうよう。
なお、今の時間は長崎の件で通信が輻輳していることと思われるので、一段落ついたら全員集合するようにと平岡少尉に伝達をするよう」

私たちとしては、自分の能力を最大限に発揮したうえでの結果でありましたので、いまさら力んでみても諺にある「蟷螂(とうろう、カマキリのこと)のなんとか)」の憂き目となるだけでした。

ソ連の参戦についての第二信は。
「8月10日の正午前、ソ連のマリク大使から東郷茂徳外務大臣に対して宣戦布告通告があった」でした。

時系列的に考えて、この時間差はなぜか。

私たちが司令部からの通報で知ったソ連軍の侵攻は、
「8月9日の午前0時を期して、ソ連軍は満州および樺太(サハリン)の北緯50度線を突破して進撃してきた」
でした。

この時間的な大きなズレはなにか?
ソ連側の言い分は「日本の大使館員が無線連絡を忘れた」ですが、このような重要な電文の送信を忘れるとは到底考えられません。

しかし、外務省には受電した記録は一切なく、以後本件についての詮索もないまま事実は葬られてしまいました。

■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■
「おはなし」の集大成Vol.1『著者自薦集全13話』は、でじたる書房にてお求めいただけます。http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/4323
■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■

情報通信の電文が山積み状態となり、通信兵は総動員で電鍵を叩きましたが、なかなか疎通が思うように進まずイライラ状態が続きました。

何処かの通信隊が同じ周波数に割り込んできて、私信であらぬウワサを流してきましたので、
「貴様の通信隊の所属は判明した。しかるべき措置をとるから、官氏名を名乗れ」と打ち返すと、ダンマリを決め込みましたので、そのことを隊長から司令部へ通報し、「今後このような通信の混乱を起す電波を発射した場合は厳罰に処する」旨の司令官命令が出されました。

沖縄戦については、戦記図書などでよく知られていますが、一方、樺太については断片的にしか認知されていないのが、現在の実態ではないでしょうか?

昭和20年8月9日の午前0時を期して、ソ連軍が南樺太(北緯50度以南)に侵攻した時の日本軍の守備隊は、峯本中将が率いる第88師団及び配属部隊でしたが、北部の国境付近では圧倒的に優勢なソ連軍と激戦を交え、北海道への進出を食い止めました。

もし、北海道への進出を防ぐことができなかったとすれば、北海道分割の悲劇を招いたことでしょう。

従って、現在、樺太は日本の領土ではありませんが、南樺太を無視するのは、当時、日本の国土を守るため勇戦奮闘し、彼の地に眠っている将兵に申し訳ないと想います。

因みに、「北方四島」の返還問題については、これまでさまざまの場で論義されてきましたが、未だ実現していません。

ご参考までに北方領土の変遷について、ご説明します。

●日露通好条約

 安政元年(1855)伊豆下田で「日露通好条約」が締結されますが、この条約
 で日ロ両国の国境は「択捉」「得撫」両島の間と決められました。
 即ち、択捉島から南は日本の領土とし、得撫島から北は、ロシア領土とする。
 樺太は従来どおり、国境を定めず両国民の混住地と定められました。

●樺太千島交換条約

 明治8年(1875)樺太、千島の交換条約を結び、樺太を放棄する代償として
 ロシアから千島列島を譲り受けます。
 列挙されている島々は「得撫島」以北の18の島々であって、「択捉島」以南
 の北方四島は含まれていません。

●ポ−ツマス条約

 明治38年(1905)日露戦争の結果、ポ−ツマス条約が締結され、樺太の北緯
 50度以南の南樺太が日本の領土となりました。

●サン・フランシスコ平和条約

 昭和26年(1951)日本はサン・フランシスコ平和条約に調印しますが、千島
 列島と樺太の北緯50度以南の権利、請求権は放棄しましたが。
 日本固有の島、いわゆる北方四島は含まれてはいません。

このように、歴史を紐解いて行きますと、「北方四島」は厳然として、我が国土であります。

ただ、徒に反露感情を駆り立て、憎悪感を育てることは嚴に戒めるべきですが歴史の事実は語りついでいく義務があると想います。

真の平和を希求するのであれば、「平和」の敵に対する備えを怠らないことが私たちに課せられた責務ではないでしょうか。




前のおはなし次のおはなし