第二の広島を阻止せよ平成17年2月18日配信 |
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戦争とは、国益を達成するために軍事的解決法を選択した手段であって、それは外交などと全く同列のものであると考えます。 外交とは武力を行使しない戦争であると思料します。 ところが、日本は最初から「戦争ありき」でありました。 「国家としての目的」達成とは本来は政治的なものであると考えますが、当時、大本営では政治と軍事が全く分離し、軍事のみが一人歩きしていたことは事実であると想われます。 また、情報の問題については、これを軽視することが日本陸軍の伝統でもあり、情報によって作戦行動を変えるのは、信念のない行為であるとの誤った思想が軍上層部には蔓延していたと想います。 太平洋戦争での大本営は、「戦争を続ける」ことが至上命題であったようです。 広島に対して「原子爆弾が投下された」ことの事実を速やかに国民に知らせなかったのは「原子爆弾の出現を報道すると、国民は非常な衝撃を受け、戦意を失わせる結果となるから不利である」との結論を出していたからのようです。 戦時中、陸軍と海軍は華々しい戦果のみを発表することとなりましたが、発表すべき戦果がない時は、「戦果を捏造」するしか方法がなかったものと考えます。 嘘をつく相手は「天皇」だろうと「国民」だろうと関係なく、軍は書類上の功名争いに汲汲とし、現実の状態から眼をそむけ、戦闘だけが戦争と考え戦場現場における情報の重要性などを考えようともせず、広島に対する原爆投下の事実も、遅まきながらの大本営発表でありました。 「第二の広島を阻止せよ」との厳命が、航空総軍から第一航空軍司令部を通じて下令されました。 司令部の須原中佐からも、森田隊長に対し 「航空総軍の参謀たちは、情報連絡を的確に判断し運用することの重要性を充分認知したようだ。ソ連の動きも眼を離せない状況にあることを、特情部が海外の通信を傍受して知ったそうである。 この、2.3日が最大の山場となるやもしれない。我々が培ってきた米軍機の動向を探索する腕前を試す最期の試練が訪れてくるような感じがする。 我々の腕前を軍上層部に知らしめる絶好の機会と想われるから、万事遺漏のないよう励むように」。 との激励の直通電話がありました。 8月8日の夜は、隊の全員が徹宵でB-29の動向を探索する体制をとり、受信機三台で従来から米軍機が使用していた周波数を検波することとしました。 こちらが推量した波長を使うかどうかはわかりませんが、根気よく検波を続けていました。 ■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■ 「おはなし」の集大成Vol.1『著者自薦集全13話』は、でじたる書房にてお求めいただけます。http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/4323 ■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■ 多田上等兵の「V符号を捉えた」の一声を聞き、俄かに活気づきましたが、時間は日付が変わった午前2時ごろでした。 続くV符号の連送はありませんが、本土に向かうものとすれば、気象観測機に違いないとの確信を得ました。 後に続くB-29が必ずあり、その米軍機が本命である筈です。 司令部へ通報した後の時間経過がもどかしい程遅く感じていたところ、和訳担当兵が「米軍機が発進しました」 時間を見ると、午前3時前です。 目指す本命のB-29はこの機かも知れません。 暫くして、もう一機が発進したことを捉えました。 別々に発進し、どこかの地点で合流するようです。 その後、B-29は無線を封止しているので、現在地の捕捉は困難でしたが、平岡少尉は自分の頭の中で飛行経路を想像で描いているようでした。 B-29の電波を捉えました。 座標数値から計算すると、北緯30度、東経130度付近です。 地点は屋久島付近で、午前8時前でした。 交信内容から推量すると二機が合流したようです。 このような体系で飛行することからみて、「第二の広島」を目標としていることはあきらかです。 司令部へ速報するとともに、航空総軍に対しても「広島の苦渋」を再現することのないよう対処されたいと、森田隊長から具申しました。 第六航空軍の電探基地は総動員で哨戒に努めたそうですが、機影を捉えることができなかったようです。 陸軍特情部は当時、 ・米国で「原爆投下目標選定委員会」が設置されていたこと ・目標都市が決定されていたこと を把握していました。 投下目標都市は「広島」「小倉」「新潟」「長崎」の順番です。 従って航空総軍では、この機がテニアン基地の第509混成群団所属であるとすれば、目標都市は「小倉」であると判断していました。 先発したB-29の交信電波を捉えました。 『「小倉」は快晴が期待できる』との内容です。 紛れもなく広島と同様の戦術です。 ただ、本命のB-29の飛行経路と位置が判然としませんが・・・。 「小倉」が危ない!との通報を司令部へ伝達しましたが、平岡少尉の類推では「本命のB-29は九州の北西の海上で先発機の情報を待ち受けており、一気に小倉を目指して爆撃行程に入った」ようです。 第六航空軍の迎撃戦闘機、高射砲は一斉に火蓋をきったそうですが、敵もさるもの、護衛の戦闘機も伴わずに、随伴機(戦果確認機)と二機のみで進入、交信するモ-ルスも相当の熟練兵であることから判断すれば、他の搭乗員も専門分家での選抜者であることを窺い知ることができました。 このB-29「ボックスカ−」を操縦し、「長崎」へ原爆を投下した機長のチャ−ルズ・スゥイ−ニ−少佐(当時)の著「私は広島、長崎に原爆を投下した(原書房原本刊行)によれば、 「爆撃行程を3度繰り返したが前夜の八幡空襲で発生した大量の煙が小倉上空に流れ込んでおり、目視による照準が不可能であると判断したが、第二目標の「新潟」は航続距離との関係から無理であるとして随伴機とともに「長崎」を目指した」 とあります。 長崎市に対しては一旦「空襲警報」が発令されますが、米軍機が東部方面に去ったため「警戒警報」に切り換えた直後の午前11時2分、原爆が投下されました。 万事休すとはこのことで、B-29の飛行経路をどうして的確に捕捉できなかったのか、悔やまれます。 屋久島周辺を通過後、約3時間が経過していますが、その間に何らかの対策を講じることが出来なかったのか、残念です。 レ−ダ−機器の貧弱さにより、小倉を諦め長崎に向かった「ボックスカ−」を捉えることができなかったのでしょうか。 8月9日の午前11時と言えば「ポツダム宣言」受諾の条件を巡って、最高戦争指導者会議に於いて議論をしている最中であったのです。 因みに、ボックスカ−の機長であるチャ−ルズ・スゥイ−ニ−氏は戦後、米国で原爆投下擁護論者として、原爆不要論に反論する著書を発表したほか、各地の大学で原爆擁護の講演を行いました。 彼の持論は 「「真珠湾」がなければ、「広島」「長崎」はなかった」でした。 「また、原爆は日本本土の九州上陸作戦で死傷したであろうアメリカの将兵約39万人の命を救った」と主張していますが、核爆発を人類殺傷に使用したことの免罪符とはなり得ないと想われます。 因みに、スゥイ−ニ−氏は昭和16年7月15日ボストンの病院で死去しました。 享年84才でしたが、死因は明らかにされていません。
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