本土決戦に備えて平成17年2月11日配信 |
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8月8日の正午から、第一航空軍司令部の判断で、大本営発表を待たずに隷下の全軍に対して戦況の情報を無線放送することとなりました。 暗号化せず、平文での高速送信でした。 しかし、次から次と司令部から直通電話で入ってくる電文をいち早く送信しなければ、情報の速報性がありませんので電鍵を叩きづめの状態でした。 既存の上等兵たちは高速送信には向いていませんので、転属組の岩城上等兵、多田上等兵と私の3名が交替で担当することとなりました。 送信しながら電文の内容を見て、従来の大本営発表と大きく乖離があることに疑問を抱き、いままで我々は騙されていたことを知り唖然としました。 広島に原爆が投下されたことは、投下翌日の8月7日午後3時ごろ、山口県高萩の陸軍第12飛行師団から東京の航空総軍にあてた情報が、最も早い第一報でありました。 広島所在の我が軍の被害が大きかったことから現地からの情報連絡は、丸一日経過してから、広島から西へ約100kmのところにあった第12飛行師団からその被害状況が通報されたのでした。 「軍事施設、工場などの大部分が破壊され、広島にあった第二総軍司令部の被害も甚大である」との内容を見て愕然としました。 因みに、第二総軍司令部は鈴鹿山系から西の陸軍部隊を統括する中枢でしたが、司令部の将兵、約400名の内半数が即死状態であったそうです。 (注)司令部の所在地は、山陽新幹線広島駅前でした。 翌8日の第二報では。 「陸軍の被害は甚大である、約30%が死亡、約30%が負傷」となっていました。 このような電文を送信しながら、たった一機のB-29が投下した爆弾の威力の大きさに言い知れぬ怖れを感じました。 森田隊長から。 「第二の広島がどの地であるかは知る由もないが、テニアン基地のV600番台のB-29発進探知を万全の体制で臨むよう」との指示がありました。 しかし、私たちが捕捉したB-29の飛行経路の情報を、軍上層部が的確に判断し有効な措置を講じなければ意味がありません。 そのことは隊長自身も充分理解していることは分かっていましたので、言えませんでした。 ただ、平岡少尉が口を真一文字に結んで、やり場のない怒りをグッとこらえていたことが想い出されます。 ■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■ 「おはなし」の集大成Vol.1『著者自薦集全13話』は、でじたる書房にてお求めいただけます。http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/4323 ■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■ 当時、大本営の疎開先は長野県松代市に置くこととされ、地下壕の工事が着々と進められていました。 航空総軍は、大阪府と奈良県の県境、香芝市の屯鶴峰(どんずるぼう)に地下要塞施設の建設が進められており、完成すれば、本土決戦に備えて航空総軍が移転することとなっていました。この地下壕工事には多くの朝鮮人が投入されたそうです。 「屯鶴峰」とは、鶴が屯(たむろ)する峰という意味らしいです。 峰の中腹に白い岩肌が現れていますが、遠くから眺めると鶴が群れているように見えるからだそうです。 二上山の北にあり、標高70m程の白色の小高い峰々がひろがる景勝地で、約1500万年前の二上山の火山活動時に噴出した火砕流が堆積し、後に風化・侵食作用を受けて現在のような特異な景観となったそうですが、天然記念物となっています。 「屯鶴峰」付近にはさまざまな軍事施設があり、屯鶴峰地下壕はこれらの施設を統括する拠点として建設工事が進められていましたが、完成する前に終戦となりました。 防衛庁防衛研究所の図書館には、次のような文書が残されています。 師作命丙第65号航空総軍命令(昭和20年6月14日) 航空総軍戦闘司令所を牡丹洞(屯鶴峰)に推進し航空総軍指定優先通信網を別紙(省略)のとおり切り換えるものとす。
【追記 060626】 屯鶴峯に移転する計画であった司令部は、 「航空総軍」昭和20年3月編成、(通称名を「師」)司令官は河辺正三大将でした。 工事の進捗状況を視察するため、李 中将他、航空総軍の参謀数名が河辺大将に随行しましたが、 戦闘機の護衛で大正飛行場(現在の八尾空港)に向かうことを、大正飛行場あてに無線(暗号文)連絡したことを TVを観ながら想いだしました。
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