ある通信兵のおはなし

8月6日の苦衷

平成17年1月28日配信
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悪夢のような「昭和20年8月6日」の午後10時ごろ、

森田隊長から、当直の通信兵を除く全員に対して「即集合」の命令がありました。

 隊長は平岡少尉とともに、6日の深夜から早朝にかけて探索した「広島に原爆を投下したB-29の飛行経路」の経緯説明をするため、情報伝達の記録を持参して市ヶ谷の司令部に出向かれていました。

平岡少尉は学徒動員の予備士官学校卒で、体育会系のばりばりでした。
少尉は、原爆投下の悲報を聞いたとき、上層部の判断の甘さに憤慨して軍刀を振り回していましたので、司令部での対応に一抹の不安を感じていました。

昼前に隊を出るとき、隊長が藤田曹長に対し、
「俺たち二人は、首をかけて司令部へ行ってくる。留守を頼む」
と言って出かけられました。その表情には悲壮感が漂っていました。

その日の午後から、第一航空軍隷下の各戦隊から矢のように無線が入りましたが、内容はどれも

「司令部はなにをしていたのか」

でした。

藤田曹長は、
「独自の判断で回答するな。『司令部から正式な指示通達があるまで待て』とだけ返電せよ」と指示していました。

留守を任された責任感からでしょうか、この指示は、いつもの血気盛んな曹長らしからぬものでした。

血走った眼をした隊長と少尉が帰隊したとき、
「やはり首をかけてきたか」と思いました。

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皆の前では、さすがに二人は冷静な態度でした。

森田隊長。

「俺がこれから述べることは、我が隊のメンツにこだわるものでは決してなく、今後の戦局を憂慮するものであることを、理解するように。

司令部の参謀会議に同席し、今回の原爆投下にかかわる我が隊の取り組み状況を詳細に説明したが、その際、幾つかの問題点を提起した。

・B-29の浸入経路を豊後水道と限定した根拠は何故なのか。
我が通信隊は米軍機の交信状況から、紀伊半島沖で二手に分かれたことを通報している。

・米軍機の交信状況から推測すれば、紀伊半島に向かった機から指示をしていたことは、明確である。
その根拠は、無線の信号音および周波数の波形から判断できる。
隊長機が「おとり機」となるような作戦は、通常では考えられない。

・防空体制の盲点をついて、本命の隊長機がたやすく「広島」に侵入することを許したのは、我が軍が米軍隊長機の動向を無視したことに最大の要因がある。
(注)「機長・ティベッツ大佐のエノラゲイ」

・我が隊の平岡少尉は、これまでB-29の飛行経路の類推作業で一度もはずしたことはない。

・従ってわが隊は、紀伊半島から内陸部に侵入したB-29の追跡探査を、司令部に対し何度も要請している。

・「今回の失策は作戦の失敗でした」で済まない事は、司令部も重々承知されていると考えられるが、今後の戦局展開に大きく影響するであろう、第二、第三の「広島」が近いことを想定する。
このことは、「ボツダム宣言」を我が国が無視したことに起因する。

司令部○○参謀長。

「森田隊長の意見ともいえる問題提起は至極もっともである。
司令部としても充分反省しているところである。司令部としての責任のがれ、あるいは言い訳をすることはしない。

通報を受けた都度、B-29の動静について、航空総軍(後記、注を参照してください)に対して即連絡をした。

しかし、航空総軍は従来の侵入経路である豊後水道の一本に絞っていた。

その理由は、九州東南の水の子燈台を目標に飛行するB-29を電探基地が捉えていたことによる。

そのことから、第六航空軍(管轄、九州)に迎撃命令を出していたそうだ。

本席上で言うべきことがらではないが、大本営は「挙国一致」「一億総玉砕」を金科玉条のように唱えているが、肝心かなめの軍部がいまだに「縄張り」の上に組織が形成されているのが実態である。

上官の命令に従うことは、我々軍人の要諦ではあるが、時と場合によることを体験したのが「広島」である。

従って、我が第一航空軍は能無しの集まりでないことを、上層部が充分認識するとともに、第二の広島を発生させない防禦策を早急に策定し、実行することが必要である。

なお、米軍機の動向についてこれまでに経験豊富な須原中佐(前にいた部隊の隊長)とともに、我が司令部の見解と意見を具申するため、航空総軍に行くこととなった。
既に、司令官殿の了承を得ている。

貴重な意見には感謝する。」

以上が司令部での模様である。

俺としては「上手くかわされた」感を拭いさることはできないが、さりとて、参謀長をそれ以上責めたてても解決しないこと、また、なによりも「仲間割れ」をしているような余裕は現時点においてはさらさら考えられない。

従って、今後、我が隊の責務がますます増大することは必至であるが、戦局の重大さを充分かみしめ一人ひとりが任務遂行に努力するよう。

以上である。」

訓示は淡々と冷静な話し振りでしたが、隊長の性格から考えると、私たちが聞いたこと以外でも、「司令部の対応の甘さをかなり追及した」と、後で平岡少尉から聞きました。

『「ボツダム宣言」の受諾可否を巡って大本営では意見が分かれている』との極秘情報を須原中佐から聞いたことも、コッソリと少尉が教えてくれました。

『「ボツダム宣言」の条文中の「日本の無条件降伏」即ち「天皇制存続」と「国体の維持」が論点である』とのことでしたが、とうとう来るべき時がやってきたと実感し、その夜は寝られませんでした。

(注)航空総軍

昭和20年4月に編成され、通称を「帥」と命名されました。
本土防衛の「決号作戦」構想が進むに連れて、従来から複雑であった陸軍航空部隊の統一指揮を目的として創設され、作戦をはじめとして、陸軍航空全般の指揮をとっていました。

司令官 河辺正三 大将
参謀長 田副 登 中将

因みに、地上部隊は三重県の鈴鹿山系で東西に分割し、東を第一総軍とし、西は第二総軍として同じく4月に設立されました。
いみじくも、第二総軍の司令部は広島におかれていました。
 
これは、米軍が本土に上陸し東西に分断された場合を想定して創設された組織です。


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